三股町の稲荷神社で書き忘れていたことがありました。
というわけで追加記事です。
稲荷神社の境内の周りには、たくさんの碑があります。社殿のすぐ隣には、「三股町開拓の碑」があります。三島通庸が都城地方に地頭として赴任し、この地の開発を行ったことを記念した碑です。表書きは三島通庸の孫三島通陽の手によるものだそうです。ちなみに、省内村にあった稲荷神社をこの地に遷宮したのも三島通庸です。
三島通庸といえば社会の教科書にも出てくるような人。日向・都城の地頭となる以前には、寺田屋事件への関与、鳥羽伏見の戦いでの活躍など話題に事欠かない人です。薩摩生まれで、西郷隆盛に取り立てられています。通庸が在任中の2年間にどんな功績を残したかが、この引き書き留められています。
さて、この開拓の碑を通り過ぎるとその奥には「西南役従軍碑」が。西南戦争は、都城も大きな戦場となりました。この碑もその戦いで亡くなった人たちを慰めるためのものでしょう。
さらに進むと「記念碑」と書かれた石碑。「明治三十七年」「旅順」「乃木大将」等の文字が見えることから日露戦争の旅順攻囲戦のことが書かれているようです。
他にも「招魂塚」「忠魂碑」などの碑があります。
数ある碑の中で一番大きいのは忠霊塔。日本のために戦って命を落としていった人たちの魂を慰める塔です。
・・・と、ここまでまとめてみてふと思いました。「三股町開拓の碑」は別として、そのほかの碑は西南戦争を端とし多くの戦争で亡くなった人たちを慰め記念するためのものばかりです。
ちょっと無理矢理な解釈かもしれませんが、「開拓の碑」は三島通庸に関わるもの、つまり、「明治維新」、「戊辰戦争」にまで関係します。その後の「西南戦争」そして、「日露戦争」さらに「大東亜戦争」。それが、この稲荷神社の周りにあるのです。
これと同じような神社がありますよね。はい、「靖国神社」です。
以下は、靖国神社のホームページに書かれている一文です。
靖国神社には現在、幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰の役(戦争)、西南の役(戦争)、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争などの国難に際して、ひたすら「国安かれ」の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々の神霊が、身分や勲功、男女の別なく、すべて祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として斉しくお祀りされています。<靖国神社の由緒→> |
想像を膨らませすぎかもしれませんが、この地の「稲荷神社」は、「靖国神社」、というより「東京招魂社」(靖国神社の前身。明治天皇の思し召しで作られた)の思想を模してこの地に遷宮されたものかもしれませんね。
ちなみに、「東京招魂社」は明治2年に建てられ、「稲荷神社」は明治3年に三島通庸の手によってこの地に遷宮されています。その後、通庸は大久保利通の計らいにより、新政府に出仕することになります。
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