神柱宮 其の弐

今回は御由来について

今回は御由来について

昔、今をさかのぼること990年ほどの昔。

太宰府からやってきた平季基(たいらのもとすえ)は日向国諸県郡島津一帯を開墾し、時の関白藤原頼道に寄進します。この地から、後の島津荘が始まります。

さて、平季基は梅北に居を構えその門を作ることにしました。そこで山から門柱になる木を切り出すのですが、この柱、片方の柱だけにもかかわらず、全く動かせません。はじめ五百人で引きますが動きません。そこで、もう五百人増やして、千人がかりで引こうとしたとき、季基の娘(6才)が、神がかりになってしまいます。そして、ご神託が下されます。

「我は伊勢の外宮なり、此の地において万民を護ろうと思う。速やかに社を建てて、その社の名を『神柱』と称すべし云々」(「島津荘総鎮守 神柱宮」のHPより)

神柱宮の手水場。龍がかっこいい。

神柱宮の手水場。龍がかっこいい。

「伊勢の外宮」とは「豊受姫大神」のこと。そう、この神柱宮に、「天照皇大神」とともに祀られている、祭神です。はじめなぜ「豊受姫大神」が祭神になっているのか不思議だったのですが、こういう理由だったんですね。

また、門柱にしようとしていた柱が、500人がかりでも動かなかったのは、その柱が、神を宿す柱だったからなのでしょうね。そうだとすると、元々の神柱宮にはこの柱が使われていたのかもしれませんね。(ぱっと思い浮かぶのは鳥居の柱ですが・・・)

このご神託を受けて、季基は伊勢神宮へ。天照皇大神の御分霊を奉戴して、梅北に神柱宮を建立します。この時は、梅北に神社があったんですね。

さて、時は下って明治4年。現在の鹿児島県東部と宮崎県南部一帯が「都城県」となります。はい、かつて都城県があったんですね。県庁所在地は、都城。県庁は、現在の都城市役所の位置にありました。ただ・・・恐ろしく短命な県だったんですね。

都城県が存在したのは、僅かに二年間です。

で、この二年間に、神柱宮を都城県の総鎮守とする計画が持ち上がります。この計画は、梅北にあった神柱宮を現在の場所に移して、総鎮守とする、というものでした。結局、都城県が廃止になりましたが、遷座に関しては宮崎県が引き継ぎ、現在の位置に神柱宮が鎮座します。

これが神柱宮のご由来ですね。豊受姫大神のことと、神柱宮が都城県総鎮守になるところだったというのは知らなかったなぁ。

 

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